#テニスのコツ ②入口で混乱テニス用語

 テニス雑誌、解説書、ネット配信の技術解説など情報は溢れてますが、動画が一番良く特に解説無視して観る事をおすすめしますw特に初心者の方は。テニス用語は語彙が少ないため、一つの言葉が複数の使われ方をしていて大変判りづらいからです。

 グリップの握りかたは右手の場合、右に回すほどフォアハンドでは厚い握りでバックハンドでは左に回すほど厚い握りで逆になります。中間のコンチネンタルグリップが薄い握りと呼ばれます。

 球の回転では順回転をトップスピン、逆回転をアンダースピンと呼び共に回転数を多くかけるほど薄く当てる、少ないほど厚く当てると言います。回転数が少ないのはフラットと呼ばれます。

 ただそれぞれの言葉の使われ方には?が生じます。スピンは球の回転のはずですが、トップスピンの意味で使われる場合が多く、ヘビースピンは順回転の多くかかったボールをさします。スピンサーブは縦回転が多くかかったサーブのことですが、スライスサーブは縦回転と横回転が共にかかったサーブをさし、トップスライスサーブはその中間です。

何ともわかりずらい。

 ドライブは今ではスピードのある順回転のストロークをフラットドライブ、同じ打ち方のボレーをドライブボレーこの時だけにつかわれます。

 スライスは逆回転のストロークにも使われますが、スライスボレーとはあえては使われません。

 

 

#ボルグ その強さ


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ビヨンボルクの強さを理解するためまず数字を並べてみる

1974年〜1981年全仏6回優勝

1976年〜1980年全英5連覇

1976年〜1981年全米4回準優勝

1975年〜全豪出場なし

1982年〜4大大会出場なし

1974年 全仏初優勝18歳  この時

    スタンスミス、ナスターゼは28歳

 ジョン・ニューカム30歳、アッシュ31歳

 ロッドレーバー36歳

    全英、全米準優勝ローズウォール39歳

 ギレルモビラス22歳

 ※典型的トップスピナーだが

  芝生時代の全豪2回優勝

  対戦成績ボルグ15勝2敗

 グランドスラム三冠コナーズ22歳

 ※1974年〜1978年全仏出場停止

  1976年〜全豪不出場

  全仏対戦なし

  全英対戦ボルグ4勝

  全米対戦コナーズ3勝1敗

1981年 全仏最後の優勝25歳

 全英、全米準優勝 この時

 コナーズ、ビラス29歳

 全英、全米優勝マッケンロー22歳

 全仏準優勝レンドル20歳

 翌年全仏優勝ビランデル17歳

 エドバーグ15歳、ベッカー14歳

 アガシ11歳、サンプラス10歳

 

素晴らしい戦歴である。球足の早い全英と遅い全仏の両方に強く共に5回以上の優勝者はいない。今後出る事も無いだろう。

 

なぜどちらにも強かったのか?

圧倒的存在であったとも言えるが、コナーズがいて実際全米では3回敗れているため1度も優勝することはできなかった事、1978年までランキング1位はほぼコナーズだった事、コナーズは全盛期に全仏出場停止だった事からすると少し違う。

 全仏と全英の両方にそれぞれのコートでそれぞれのコートが得意のビラス、コナーズや他の選手を上回っていたためだ。ただその上回り方がそれぞれで全く違うところがボルグの強さの真骨頂である。
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ボルグのつよさ①

全仏オープンなどで見せる身体と技術と精神の安定度は抜群である。

単にトップスピンを打つベースライナーでは6回もの優勝は出来ない。この事は同時代により強力なトップスピンを打つギレルモビラスとの対戦を見ると詳細が見えてきて大変興味深い。
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スコアをみなければ、長いストロークの打ち合いの印象ではビラスの方が勝ってるようにさえ見える。同じ身長で筋肉隆々のビラスのフォアハンドはボルグのそれより大きな弧を描きしかも力強い。バック側に来たボールも回り込んで叩く現代のスタイルの元祖のようなテニスであるがこれがボルグに勝てない要因のひとつだった。ボルグは著書で書いているようにストロークで腰を入れて打つ事を安定面から否定している。ビラスの全身を使ったフォアハンドより威力面でやや劣るのはこのためで本気を出してないとも言える。それは決め球を叩く時のボルグのフォアの力強さとラリーの時を比較するとよくわかる。さらに当時の木製ラケットではビラスの渾身のフォアとボルグの手抜きのフォアの威力の差がそれほど大きくはなかった。

 ボルグはまた歴代最高の角度の付いたバックハンドを打つ事が出来た。両手打ちバックハンドは一定以上の角度を付けるのは難しいがボルグのそれは途中で左手を離すスタイルでシングルバックハンド並の角度と両手バックハンドの安定の両方を持っていた。フォアからバックから角度を付けてビラスを揺さぶり、ビラスは自らも回り込んだりして長いストロークの打ち合いで徐々に疲労していく、両者の息のあがり具合の差は意外なくらい大きい。

スコアと対戦成績での大差はそこにある。ビラスですらそうだから他のクレーコーターに負ける事は滅多になかった。

 ボルグは自身の脚力と心拍機能の才能に気付き、遅いコートではシンプルな体力勝負の戦術を採用したのではないだろうか。ひたすら打ち返して勝ち続けた。感情もコントロールして冷静に必要以上のショットも打たなかった。

 

ボルグの強さ②

戦術力、相対的サーブ力

 


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 ボルグが全仏で強いのは簡単に理解できるが全英での強さは40年たった今でも謎とされている。過去の映像を簡単に確認出来るようになって要因が幾つもかさなつていた事がわかる。

 ストロークは全仏の時のプレイに比べてラリー回数は少なく、バウンドはそれほど高くはない。しかし頭のいいボルグはトップスピンの別の使い方を知っていた。70ポンドで張ったラケットから放たれる重たいスピンは芝生では大きくは弾まないが相手からは打ち込みにくくディフェンスに役だった。

 また、イメージと違いネットによく出てポイントを取っている。ボレーはきれいとは言えないがキッチリと決めている。フォアもバックもアプローチを中心にスライスも使っている。このフォームが綺麗でないところがボルグらしい。

 つまりネットプレーを戦術として取り入れていて成功していると言う事になる。なぜトップスピナーでベースライナーのボルグがそんな事が出来たのか?また、ストローク戦での絶対的な強さにもかかわらずそのような戦術をとったのか?付け焼き刃で中途半端にならなかったのか?

 まず当時の状況が重要で、現代とは違い、木製ラケットの時代、芝生のコートでは特にサーブ&ボレーの戦術が圧倒的に有利であった。ネットについてボレーすればそれを高い確率でパッシングで抜く事が出来る選手はボルグ以前はいなかった。つまり対戦相手が嫌がったのだ。ハードコートがまだ少なかった頃のヨーロッパ出身のボルグはその事は十分承知で分かっていたし実際、優勝を重ねるに従いネットに着く事が多くなっていった。

 必ずしも上手でないボルグのボレーは芝生のコートだから通用したと言われる事が多いがこれは少し違う。このサーフェスでは不十分な状態でもアプローチしてファーストボレーをする事も大切で、このためのタッチ系のボレーは当時の選手には必要不可欠だったが、ストロークの打ち合いで負けないボルグには不十分な状態からのアプローチとファーストボレーのためのタッチボレーは必要ないものだった。これはライバルコナーズも同様だったがコナーズのボレーはもっと上手で綺麗でもあった。いずれも十分なアプローチをとった後の決めのボレーがあれば良かったのだ。

 つぎに低くボールが滑る芝生の全英コートにおいて打点の低いボルグが守備面で非常に有利であった。打点の低さ、トップスピン、両手打ちバックハンド。この3つの理由からパッシングショットをクロスに安定して打つ事が可能になり対戦相手をネットに出にくくした。また、イメージほどグリップが厚くないためトップスピンを引き付けて後ろの打点で打つ事もできた。今でいうウィンドミルあるいはバギーホイップショットの元祖である。つまり芝生でもストロークの打ち合いでは王者であったと言える。ライバルコナーズもフラットを深く滑らせて芝生のコートでの打ち合いも得意であったが脚の速いボルグはベースラインよりかなり後ろに構えて互角に打ち合ったが、次の点で勝っていた。

 ボルグはサーブが当時の上位のプレーヤーの中では相対的に速い方であった。これが大きい。サービスキープがより楽にできることでコナーズにもだれにも優位に立つ事が出来た。ボルグより上の世代にはよりサービスが強力またはサーブ&ボレーが上手いプレーヤーが沢山いた。いや殆んどが、そういったタイプのプレーであったが、みな全盛期を越えていた。またコナーズ、ビラス、ボルグの3人がつぎの世代のサーブ&ボレータイプ完全に駆逐してしまっていた。

 相対的にサーブが良く、守りも堅いボルグが芝生のコートでも強かったのは当然であったと言える。同じ事が当時芝生のコートであった全豪でのビラスの2回の優勝の理由でもある。ボルグとコナーズが出場しない大会で別人の様にサーブ&ボレーを抜かれても抜かれても繰り返したのたった。

 次の世代のマッケンローや更に後のベッカー、エドバーグなどはサーブ&ボレーだけでなくストロークもしっかりしたプレーヤーで

このタイプを生んたのはボルグとコナーズの功績と言える。

 

ボルグの強さ③

勝負強さ

 

ボルグはグランドスラムの決勝で

11勝5敗と勝負強さは群を抜いている。

ちなみにマツケンロー7勝4敗

コナーズ8勝7敗

レンドル8勝11敗である。

 

ボルグが活躍したのは


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レーバーが全盛期をこえて暫くしてから


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コナーズと同時期にともに強力なストロークを武器に登場した。他の一流選手もことごとく全盛期を過ぎており事実上70年代はボルグのライバルはコナーズだけであった。言い方を変えれば同世代の選手を二人は圧倒していた。そしてボルグは徐々にサーブ力を増してコナーズにも負けなくなりウィンブルドンで5連覇を達成する。
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マツケンローとの決勝1980年の事だが、この後全米、翌年のウィンブルドン、全米と同じマツケンローに決勝で3連敗してしまう。

もし、マツケンローの登場がもう少し早ければ、あるいはレーバーの活躍がもう少し後の時期ならばボルグの活躍はなかったのか?

 それは違う。実際にコナーズの全盛期と重なっており、コナーズはボルグが去ってからグランドスラム3回も優勝するほど力は落ちてなかったのだから。またたらねばの話ならば、もし全米のサーフェイスが芝やクレイからハードコートへの変更がもう少し後であったならば、もしボルグが全豪に毎年出ていたならば等の方が現実に近い。いずれにせよボルグの偉業は変わらない。

 

ボルグの強さ④

相対的に少し上回る=勝利

この図式を理解し実践できた。

その環境である8年間に集中できた。

そして木製ラケットとともに去る。


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 若き日のボルグは自らの身体能力と安定感のあるダブルハンドとトップスピンの技術、一流選手たちのプレースタイル、年齢などを客観視した。コートサーフェイスに合った戦術で相手よりミスを少なくして1ポイントでも多くとる事だけに集中すればチャンピオンに成れる事を確信したはずだ。そしてそれを成し遂げた。

 ボルグや女子のエバートの二人の人気でテニスはビックビジネスとなりウェアやラケットはかつてないほど売れた。大量販売は多様化や開発費向上も促し80年代になりラケットの素材に変化が現れる。木製から高価ではあるが高性能でより大量生産が可能な炭素素材のものが登場する。木製からの解放は規制のなかったテニスラケットに面サイズのアップをもたらしこれが人気を得ると木製のレギュラーサイズのラケットはプロ選手の使用変更とともに短期間で生産終了となる。プリンスのグラファイトは発売当時10万円程したがよく売れた。ボルグは木製ラケットを使用したまま引退(後の短期復帰を除く)。マッケンローは83年途中から木製を卒業、キャリアの真ん中である全盛期に変更。コナーズは名器ウィルソンプロスタッフの開発に係わったが合わずに直ぐにアルミ製のT2000に戻した。

 

 このラケットの変化はテニス技術の進化、とりわけトップスピンストロークが簡単になりラリーのスピードが格段のあがる事を示唆していた。トップスピンは難しい技術でなくなるのをボルグは早い段階でわかったはずで、より強力なストロークを武器とする選手が多く現れる事を覚悟した事だろう。  

 実際に強力なフォアハンドのレンドルのような選手が現れる。
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レンドルはシングルバックハンドでもトップスピンを打ち続けられた最初の一流選手で、サーブもまた強力なものを持っていて、マツケンローに勝ち続けた。マツケンローも翌年に木製ラケットを卒業し対抗した。

 ボルグが82年以降シーズンを休んでいる間にテニス界は短期間に大きく変わった。ボルグは木製ラケットとともに引退する形となったが、潮時であったように思える。誰とも似ていないプレースタイルのコナーズとは違い、トップスピナー達はみなボルグのプレースタイルと木製のラケットの両方を進化させたスタイルであったから、ボルグは僅かな期間でクラシックとなってしまったが、おそらく冷静に相対的強さを意識していた本人はかなり早くにそれを予測していたのだろう。王者のままで美しくラケットを置くかたちとなった。

 

ボルグの功績

トップスピンを一般化した

両手打ちバックハンドを一般化した

サーブ&ボレー一辺倒を終わらせた

テニス周辺をビックビジネスにし

バンダナ、リストバンドなどファッションにも影響を与えた。

テニス史上最も偉大な存在だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#テニスのコツ ①プロの真似か球の当て方か?

テニスのコツとは?

二つあります。

 一つはプロのプレーヤーのイメージを焼き付けて真似る事。人から見てどうかは関係なく、自分で出来てると思えたらそれで完成です。例えば、ナダルのフォアハンドのベビースピンがなんとなく出来てる気がすると思えたら充分ok です。ナダルの全てにはなれなくても部分的にコピー出来れば、それを武器としましょう!プロの強烈なイメージに言葉は要りません。どんどん成りきる事が大切です。その技術については部分的な才能があるのです。ただコマ送りの分解写真を真似るのはダメです。特に一枚の写真など部分的なイメージは脳と体が誤解してしまうので要注意です。

 イメージが出来ない、或いは真似出来ない技術については残念ながら部分的な才能がないのです。但し本気でプロを目指しているのでもないのなら、自称ナダルのベビースピンをイメージだけで取得した相手に少しの練習で追いつけることでよしとしましょう。この少しの練習とは球の当て方です、イメージが出来るまでは当て方を正しく理解する事に専念します。

 注意点はフォームの一部だけを真似しないことです。例えばナダルがフォアハンドでベビースピンを打った後に腕全体がムチを使ったように後ろに戻るのはスイングが速すぎて結果として起こる現象です。ゆったりとしたスイングでこのフォームを真似てもベビースピンはかかりません。プロの真似をするなら、一連の動作を丸ごとコピーをしてみましょう。

 二つ目のコツは球のどの部分を打つのか、いわゆる当て方を理解する事です。これはイメージだけでコピー出来るショットには必要なくまた、習得方法が全く違います。例えばベビースピンを打ちたいなら、まずプロのコピー出来ればok 、ダメなら当て方を工夫してみます。スイングスピードで少し変わりますが上手くいく当て方が決まればフォームも自然と決まります。ベビースピンの場合は球の上側を打つ、これがネットするなら握りが薄いのかスイングが遅く合わないので球の後ろ側を打つ、まだ合わないなら球の下側を打つ。こんな感じで体力やグリップやセンスに合った球の当て方を調整していくのですが、残念ながら多くのコーチは自分の感覚しかわからないので球の上側を打つ、ダメならスイングスピードを上げる、または握りを厚く変える、フォームを変えるなどとアドバイスして混乱させてしまいます。

 繰り返しになりますが球の当て方を知ることがコツでフォームは自分が成功した当て方で自然と身に付きます。フェデラーのフォアハンド逆クロスなどイメージだけでコピー出来る人は案外多くいますが、無理なら球の内側を打つコツを覚えれば結果としてフェデラーのフォームと似たものになりますが、フォームを真似ただけではなかなか球の内側を当てるコツはつかめません。

 

 

 

 

 

 

 

 

#アガシ 現代テニス文化はアガシから ①アガシ以前

現代テニス文化の歴史

 

1877年 ウィンブルドン大会がはじまる

1968年 4大大会オープン化でプロ選手出場

1970年代前半 

 プレースタイルはサーブ&ボレー主体でバックハンドはシングルでスライス。みんなプレースタイルが同じなのでサーブの強さがテニスの強さでプロスポーツとしての魅力に欠けていた。

 ラケットは後にレギュラーサイズと呼ばれる70位のもので木製とアルミ製は打感の好みで選ばれた。

 コートは芝生か土のクレーで日本では例外を除きクレーコートで雨のあとは数日利用できずコート整備も大変でレクリエーションとして利用できるコートは稀でテニスは高級会員制クラブと学生のものであった。

 ファッションは白く襟のあるものに限られそれがまたテニスを限られたもの達のものだとのイメージを作っていた。

 この時期までテニス文化は前期安定期と呼ぶ事ができる。日本では軟式テニスが優勢でテニスといえばこちらの事だった。

 理由としては軟式ボールは空気を補充するタイプなので長く使用できるが硬式ボールは当時白しかなく土のコートですぐ汚れ、ノンプレッシャーボールもなかったので使用期間は短くまた価格も高く部活としては非常にコストがかかるスポーツだった。

 レギュラーサイズのラケットは現在のプロがカスタマイズして使用しているものよりも重く部活を始める中学生には重すぎた。

 このようなことから、硬式テニスの競技者人口は少なくすなわち経験者、指導者も少なく部活には軟式しかない学校もありメジャーなスポーツではなかった。

 ところが3人の若者の同時の登場で世界中でテニス人気が高まる。軟式優勢だった日本の状況も変わっていく。

 

1973年 ウィンブルドンで有力選手の多くがボイコット。若手が活躍する。女子エバート準優勝、コナーズベスト8、10代のボルグもベスト8となりその容姿からアイドル的な人気となる。10月アニメ、エースをねらえ放送開始

 

1974年 プロ世代交代

エバート19歳全仏、全英優勝 

コナーズ21歳全豪、全英、22歳全米優勝

ボルグ18歳全仏優勝

3人の共通点は若く魅力的なこと以外にバックハンドが両手打ちでベースラインプレイヤーであったことで観戦はラリーの応酬を充分楽しんだあとにエースを決めるのを見る事が出来るので、それまでのサービスエースとネットミスがほとんどのテニスより観て楽しめた。また両手打ちバックハンドは自分にも出来ると世界中の若者に思わせた。

 

1970年代中期~1980年代中期

 上記3人の活躍は続きテニスブームも続き競技人口は飛躍的に伸び、ラケット、ウェア、シューズなど人気選手が使用するものは爆発的に売れテニスがビッグビジネスにも成長した。日本の小さなメーカーだったフタバヤラケットはYONEXと改名しナブラチロワの快進撃と共に世界的なメーカーになった。

 コートが世界中で増えると管理の簡単なハードコートが開発されて日本にも輸入されると公営コートやテニススクールが一気に増える事になった。全米、全豪もハードコートに変わり現在に至っている。日本ではハードコートの洗練を受けたあと人口芝のオムニコートが開発され小雨くらいなら使用出来る便利さと身体に優しい事で人気となりハードコートは20年ほどでその姿を見ることはなくなったがこれは世界的には稀なことである。

 ラケットの変化は素材、サイズの要素が交ざりあいながら一気に変化する。プロでみると82年全仏でビランデルは炭素素材のミッドサイズ、マッケンローは82年全英で木製のレギュラーサイズ83年全英では炭素素材のミッドサイズ、エバートは83年全仏では木製のレギュラーサイズ84年全仏では炭素素材のミッドサイズ(初代プロスタッフ)概ね83年が切り替えピークだつた。

 日本でコートが多くなりレジャーテニスが可能になったのは1980年代前半でプリンスがデカラケを発売しその模倣品の安いアルミ製のものが専門店以外でも買えるようになたのが1984年頃、過渡期として木製のデカラケもあった。

 プロや体育会系学生が使うミッドサイズの炭素素材ラケットはツアーモデルと呼ばれ、木製のレギュラーサイズのラケットのフィーリングを継承した柔らかいものであり、プロや上級者の要望に沿ったもので一般用とは異なり一旦進化が止まる。ウィルソンプロスタッフがその代表で25年も作られ続ける。

 一方デカラケに始まった一般向けラケットはアルミから炭素素材へ、次に厚ラケへと簡単化し、また徐々に硬くしならないものに変わっていきラケットの二極化が進んでいった。また低価格のアルミ製ラケットはレジャー用としても入門用としても競技人口の増加に貢献する事になる。

 

 コート、ラケットが変わっていくと同時に技術面にも変化があった。

 サーブは高く弾むハードコートが増えたため低く滑るタイプのスライス系サーブはウィンブルドン以外では見ることが少なくなった。

 フォアハンドはボルグ、ビランデルの打点の低い大きくゆっくりのトップスピンから、時には高い打点で叩くスピードも兼ね備えた進化したフォアハンドをレンドルが打った。

 バックハンドはコナーズのスライス系フラットは続く者はなく、ボルグの半両手打ち、ビランデルのほぼ両手打ちトップスピンは個性的ではあるがまだまだシングルハンドが一般的であった。女子では両手打ちが多数派となっていった。これはエバートの癖のない安定してしかも力強い両手打ちバックハンドの良い手本の功績である。

 

四大大会は現在とは違いウィンブルドンのチャンピオンが年間最高とのイメージが80年代前半まであった。それはコートサーフェス全仏オープン以外の3大会は全て芝であった事で格式の高さでウィンブルドンが群を抜いていたからだった。75年に全米オープンクレーコートへ変わり更に78年にハードコートへ変わる。(コナーズは全てのコートで優勝している!)全豪オープンも88年からハードコートに変わり施設面でも大きく変わる。それまで他の3大会より人気選手の出場が少ない時代が長かったがここから本当の意味で四大大会となる。

 

 

 

このあと

1980年代後期 アガシプロデビューする

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#コナーズ 空前絶後のテニスプレイヤー



テニス史上で最も個性的なプレイヤーは誰か?Jコナーズで異論はないだろう。

 

 彼の活躍した70年代の前にも、80年代の後にも、現代に至るまで似たタイプのプレイヤーはいない。

 その特長はベースラインからの強打だ。
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当時もフォアハンドを強打する者は多くいたがコナーズはそれを打ち続ける事が出来た最初のプレイヤーだ。打ち続けるとはミスしないという事を意味する。

 また、両手打ちのバックハンドの方がスピード、安定でフォアハンドを勝る。こんな一流プレイヤーは後にも先にもコナーズ以外いない。
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 連続強打にもかかわらずミスが少ない事がコナーズのテニスの特長で、球種はトップをフラットで叩く事が中心だが、来たボールにあわせて起用にドライブやスライスをかける。スピン量はすくなくドライブもスライスもフラット並のスピードで何より深くベースラインに突き刺さる。そして相手を崩したと見るやアプローチを打った後のようにスルスルとネットに詰めてパンチボレーを決める。

つまり強打を無理なく繊細に打ち分ける天才だったのだ。

 他にもコナーズのテニスは他の選手と違う点多い。得意のストロークがフラット中心にもかかわらず安定してかつ、威力があるのは、サイドスピンを打点の高さによって上手く使いわけているためでスピードと深さを犠牲にせずフラット系のボールを気持ち良く強打できた。ボレーも同じで両手打ちバックハンドもフォアのパンチボレーもストロークの延長のように力強くかつスムーズに打てる。

 左右のストローク、アプローチ、ボレーまですべて同じ打ち方で行うこれがミスが少ない理由でリターンも同様である。

 唯一弱点があるとすればサービスかもしれない。グランドスラム三冠の74年当時にはそれでも平均より見劣りするようなスピードでは全くなかった。むしろ良く切れて滑っている。その後年々大きな弧を描くスピンサーブに変化していった。ボルグのサーブが年々スピードを増し相対的にサーブの良いプレーヤーとなっていったのと対象的である。

 これはどう理解すべき事か?ひとつは時代がコートサーフェスの変化のピークだったからだろう。左利きのコナーズは芝生のコートではスライスサーブが有効であったが、ボールの切れよりもスピードやはずむスピンが有効なハードコートが多くなりボルクはスピードをコナーズはスピンを選んだ。この事がそれぞれウィンブルドンと全米での優位を決定したのかもしれない。

 

 コナーズは間違いなくテニスをハードなスポーツに変えたプレーヤーで当時は全てのショットが平均以上でかつ両手打ちバックハンドがずば抜けていた。しかし自らの作ったハードテニスの時代はラケットの進化と共に徐々にコナーズのスピードを平均的なものにしてしまいサーブやスピンの少ないフォアハンドは弱点とさえ見られた。普通ならそこでランクを下げてしまう。実際にボルクはその新しい波を感じてかトップスピンの技術が一般化し木製のラケットが姿を消す時に26歳の若さで引退を決めた。

 コナーズは対照的に40歳近く迄活躍をみせ悪役から絶大な人気のレジェンドに変わっていく。力で叩きのめすプレースタイルから、相手の力を利用して切り返す組み立てで勝負するプレースタイルに変わり、押されていたのを最後に一発逆転する様な観客をシビレさせるテニスをした。矛盾する様だが、コナーズのテニスは晩年まで大きな変化はなく、対戦相手のテニスが大きく変化していったので戦い方が変わったのである。フラット&高速スライスのストロークは稀有の存在で対戦相手、特に増加したトップスピナー達を最後まで苦しめた。

 コナーズは変わらず、対戦相手のプレースタイル、コート、ラケットが変化していった。年代毎のビデオを観てテニスの歴史が判るほどである。

 

 

 

 

 

 

#アガシ 現代テニス文化はアガシから②アガシ登場

1986年アガシがデビューする。
 それまでのテニスプレーヤーとは何か違っていた。長髪、ジーンズのパンツ、パイレーツスタイル、ピアス、スキンヘッド、それまで女性的なイメージが拭えなかったテニスプレーヤーをやんちゃなイメージに大きく変えた。セレブな女優と堂々と付き合い女王グラフとも結婚してしまうまさにスターだった。

 だが世界中のキッズを"リトルアガシ"に育てたのはその引っ叩くプレースタイルの魅力だった。ボルグが現れた時は異端でプレースタイルが市民権を得るまで時間を要したし、コナーズにいたっては彼以後に同様なスタイルは現れなかった。

 アガシの場合は違った。ほとんどの人が

はじめて彼のテニスを見た時に彼の成功だけでなく、テニスのスタイルの進化を確信することができた。ボルグ→ビランデル→レンドルと進化したトップスピンストロークをつなぎではなく、ライジング気味に高い打点で引っ叩く。観ても真似ても気持ちの良いテニスがこの時代にうまれた。

 さらにアガシのテニスには細部も洗練されていた。ダブルのバックハンドでも強打するが、厳しい球を拾う際は柔軟にシングルハンドのスライスでかわす。また、ビランデルやレンドルがキャリアを重ねるほどスライスのバックハンドが増えてマイルドになったのとは逆に年々フォアハンドは厚いあたりになり、まわりこんで撃つことが多くなった、現代の主流のスタイルの元祖と言える。

 サーブは合理的で、デュースコートからはスライスサーブ。アドコートからは大きくバック側にキックするスピンサーブを共にファーストから打ちわけた。このシンプルでわかりやすく効果のあるサーブの組立も世界中の若者たちが真似た。

 またベースラインプレーヤーだが、球が速くリターンも強力で安定しているためアガシのスタイルはダブルスでも意外と通用した点も真似る者が多かっ所以である。

 10代で華々しくデビューしたアガシだが全米オープンの大舞台でその後の彼を変えるひとコマに接する。アメリカテニスそのもののコナーズ相手の試合でのことだった。敗戦が濃厚になったコナーズのサービス前に野次が飛ぶ「あんたは伝説、あいつはガギだ!」苦笑いしたコナーズは野次のでた方にボールを打ち込む。主審が観客に静かにと促すが「ここはウィンブルドンじゃないぞ!」コナーズは叫び観客を魅了する。アガシはこの試合に勝つが、遠くコナーズに及ばない事を思い知る。

 その後、アガシはコナーズと同じグランドスラム8回の優勝を果たしオリンピック金メダルまで獲得する。キャリア晩年、あの時のコナーズの様な年齢で全米オープン決勝に進み"ガギ"も伝説となりやっとコナーズと並ぶ事ができた。相手はその後やはり伝説となるフェデラーだった。