#アガシ 現代テニス文化はアガシから ①アガシ以前

現代テニス文化の歴史

 

1877年 ウィンブルドン大会がはじまる

1968年 4大大会オープン化でプロ選手出場

1970年代前半 

 プレースタイルはサーブ&ボレー主体でバックハンドはシングルでスライス。みんなプレースタイルが同じなのでサーブの強さがテニスの強さでプロスポーツとしての魅力に欠けていた。

 ラケットは後にレギュラーサイズと呼ばれる70位のもので木製とアルミ製は打感の好みで選ばれた。

 コートは芝生か土のクレーで日本では例外を除きクレーコートで雨のあとは数日利用できずコート整備も大変でレクリエーションとして利用できるコートは稀でテニスは高級会員制クラブと学生のものであった。

 ファッションは白く襟のあるものに限られそれがまたテニスを限られたもの達のものだとのイメージを作っていた。

 この時期までテニス文化は前期安定期と呼ぶ事ができる。日本では軟式テニスが優勢でテニスといえばこちらの事だった。

 理由としては軟式ボールは空気を補充するタイプなので長く使用できるが硬式ボールは当時白しかなく土のコートですぐ汚れ、ノンプレッシャーボールもなかったので使用期間は短くまた価格も高く部活としては非常にコストがかかるスポーツだった。

 レギュラーサイズのラケットは現在のプロがカスタマイズして使用しているものよりも重く部活を始める中学生には重すぎた。

 このようなことから、硬式テニスの競技者人口は少なくすなわち経験者、指導者も少なく部活には軟式しかない学校もありメジャーなスポーツではなかった。

 ところが3人の若者の同時の登場で世界中でテニス人気が高まる。軟式優勢だった日本の状況も変わっていく。

 

1973年 ウィンブルドンで有力選手の多くがボイコット。若手が活躍する。女子エバート準優勝、コナーズベスト8、10代のボルグもベスト8となりその容姿からアイドル的な人気となる。10月アニメ、エースをねらえ放送開始

 

1974年 プロ世代交代

エバート19歳全仏、全英優勝 

コナーズ21歳全豪、全英、22歳全米優勝

ボルグ18歳全仏優勝

3人の共通点は若く魅力的なこと以外にバックハンドが両手打ちでベースラインプレイヤーであったことで観戦はラリーの応酬を充分楽しんだあとにエースを決めるのを見る事が出来るので、それまでのサービスエースとネットミスがほとんどのテニスより観て楽しめた。また両手打ちバックハンドは自分にも出来ると世界中の若者に思わせた。

 

1970年代中期~1980年代中期

 上記3人の活躍は続きテニスブームも続き競技人口は飛躍的に伸び、ラケット、ウェア、シューズなど人気選手が使用するものは爆発的に売れテニスがビッグビジネスにも成長した。日本の小さなメーカーだったフタバヤラケットはYONEXと改名しナブラチロワの快進撃と共に世界的なメーカーになった。

 コートが世界中で増えると管理の簡単なハードコートが開発されて日本にも輸入されると公営コートやテニススクールが一気に増える事になった。全米、全豪もハードコートに変わり現在に至っている。日本ではハードコートの洗練を受けたあと人口芝のオムニコートが開発され小雨くらいなら使用出来る便利さと身体に優しい事で人気となりハードコートは20年ほどでその姿を見ることはなくなったがこれは世界的には稀なことである。

 ラケットの変化は素材、サイズの要素が交ざりあいながら一気に変化する。プロでみると82年全仏でビランデルは炭素素材のミッドサイズ、マッケンローは82年全英で木製のレギュラーサイズ83年全英では炭素素材のミッドサイズ、エバートは83年全仏では木製のレギュラーサイズ84年全仏では炭素素材のミッドサイズ(初代プロスタッフ)概ね83年が切り替えピークだつた。

 日本でコートが多くなりレジャーテニスが可能になったのは1980年代前半でプリンスがデカラケを発売しその模倣品の安いアルミ製のものが専門店以外でも買えるようになたのが1984年頃、過渡期として木製のデカラケもあった。

 プロや体育会系学生が使うミッドサイズの炭素素材ラケットはツアーモデルと呼ばれ、木製のレギュラーサイズのラケットのフィーリングを継承した柔らかいものであり、プロや上級者の要望に沿ったもので一般用とは異なり一旦進化が止まる。ウィルソンプロスタッフがその代表で25年も作られ続ける。

 一方デカラケに始まった一般向けラケットはアルミから炭素素材へ、次に厚ラケへと簡単化し、また徐々に硬くしならないものに変わっていきラケットの二極化が進んでいった。また低価格のアルミ製ラケットはレジャー用としても入門用としても競技人口の増加に貢献する事になる。

 

 コート、ラケットが変わっていくと同時に技術面にも変化があった。

 サーブは高く弾むハードコートが増えたため低く滑るタイプのスライス系サーブはウィンブルドン以外では見ることが少なくなった。

 フォアハンドはボルグ、ビランデルの打点の低い大きくゆっくりのトップスピンから、時には高い打点で叩くスピードも兼ね備えた進化したフォアハンドをレンドルが打った。

 バックハンドはコナーズのスライス系フラットは続く者はなく、ボルグの半両手打ち、ビランデルのほぼ両手打ちトップスピンは個性的ではあるがまだまだシングルハンドが一般的であった。女子では両手打ちが多数派となっていった。これはエバートの癖のない安定してしかも力強い両手打ちバックハンドの良い手本の功績である。

 

四大大会は現在とは違いウィンブルドンのチャンピオンが年間最高とのイメージが80年代前半まであった。それはコートサーフェス全仏オープン以外の3大会は全て芝であった事で格式の高さでウィンブルドンが群を抜いていたからだった。75年に全米オープンクレーコートへ変わり更に78年にハードコートへ変わる。(コナーズは全てのコートで優勝している!)全豪オープンも88年からハードコートに変わり施設面でも大きく変わる。それまで他の3大会より人気選手の出場が少ない時代が長かったがここから本当の意味で四大大会となる。

 

 

 

このあと

1980年代後期 アガシプロデビューする