#ボルグ その強さ


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ビヨンボルクの強さを理解するためまず数字を並べてみる

1974年〜1981年全仏6回優勝

1976年〜1980年全英5連覇

1976年〜1981年全米4回準優勝

1975年〜全豪出場なし

1982年〜4大大会出場なし

1974年 全仏初優勝18歳  この時

    スタンスミス、ナスターゼは28歳

 ジョン・ニューカム30歳、アッシュ31歳

 ロッドレーバー36歳

    全英、全米準優勝ローズウォール39歳

 ギレルモビラス22歳

 ※典型的トップスピナーだが

  芝生時代の全豪2回優勝

  対戦成績ボルグ15勝2敗

 グランドスラム三冠コナーズ22歳

 ※1974年〜1978年全仏出場停止

  1976年〜全豪不出場

  全仏対戦なし

  全英対戦ボルグ4勝

  全米対戦コナーズ3勝1敗

1981年 全仏最後の優勝25歳

 全英、全米準優勝 この時

 コナーズ、ビラス29歳

 全英、全米優勝マッケンロー22歳

 全仏準優勝レンドル20歳

 翌年全仏優勝ビランデル17歳

 エドバーグ15歳、ベッカー14歳

 アガシ11歳、サンプラス10歳

 

素晴らしい戦歴である。球足の早い全英と遅い全仏の両方に強く共に5回以上の優勝者はいない。今後出る事も無いだろう。

 

なぜどちらにも強かったのか?

圧倒的存在であったとも言えるが、コナーズがいて実際全米では3回敗れているため1度も優勝することはできなかった事、1978年までランキング1位はほぼコナーズだった事、コナーズは全盛期に全仏出場停止だった事からすると少し違う。

 全仏と全英の両方にそれぞれのコートでそれぞれのコートが得意のビラス、コナーズや他の選手を上回っていたためだ。ただその上回り方がそれぞれで全く違うところがボルグの強さの真骨頂である。
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ボルグのつよさ①

全仏オープンなどで見せる身体と技術と精神の安定度は抜群である。

単にトップスピンを打つベースライナーでは6回もの優勝は出来ない。この事は同時代により強力なトップスピンを打つギレルモビラスとの対戦を見ると詳細が見えてきて大変興味深い。
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スコアをみなければ、長いストロークの打ち合いの印象ではビラスの方が勝ってるようにさえ見える。同じ身長で筋肉隆々のビラスのフォアハンドはボルグのそれより大きな弧を描きしかも力強い。バック側に来たボールも回り込んで叩く現代のスタイルの元祖のようなテニスであるがこれがボルグに勝てない要因のひとつだった。ボルグは著書で書いているようにストロークで腰を入れて打つ事を安定面から否定している。ビラスの全身を使ったフォアハンドより威力面でやや劣るのはこのためで本気を出してないとも言える。それは決め球を叩く時のボルグのフォアの力強さとラリーの時を比較するとよくわかる。さらに当時の木製ラケットではビラスの渾身のフォアとボルグの手抜きのフォアの威力の差がそれほど大きくはなかった。

 ボルグはまた歴代最高の角度の付いたバックハンドを打つ事が出来た。両手打ちバックハンドは一定以上の角度を付けるのは難しいがボルグのそれは途中で左手を離すスタイルでシングルバックハンド並の角度と両手バックハンドの安定の両方を持っていた。フォアからバックから角度を付けてビラスを揺さぶり、ビラスは自らも回り込んだりして長いストロークの打ち合いで徐々に疲労していく、両者の息のあがり具合の差は意外なくらい大きい。

スコアと対戦成績での大差はそこにある。ビラスですらそうだから他のクレーコーターに負ける事は滅多になかった。

 ボルグは自身の脚力と心拍機能の才能に気付き、遅いコートではシンプルな体力勝負の戦術を採用したのではないだろうか。ひたすら打ち返して勝ち続けた。感情もコントロールして冷静に必要以上のショットも打たなかった。

 

ボルグの強さ②

戦術力、相対的サーブ力

 


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 ボルグが全仏で強いのは簡単に理解できるが全英での強さは40年たった今でも謎とされている。過去の映像を簡単に確認出来るようになって要因が幾つもかさなつていた事がわかる。

 ストロークは全仏の時のプレイに比べてラリー回数は少なく、バウンドはそれほど高くはない。しかし頭のいいボルグはトップスピンの別の使い方を知っていた。70ポンドで張ったラケットから放たれる重たいスピンは芝生では大きくは弾まないが相手からは打ち込みにくくディフェンスに役だった。

 また、イメージと違いネットによく出てポイントを取っている。ボレーはきれいとは言えないがキッチリと決めている。フォアもバックもアプローチを中心にスライスも使っている。このフォームが綺麗でないところがボルグらしい。

 つまりネットプレーを戦術として取り入れていて成功していると言う事になる。なぜトップスピナーでベースライナーのボルグがそんな事が出来たのか?また、ストローク戦での絶対的な強さにもかかわらずそのような戦術をとったのか?付け焼き刃で中途半端にならなかったのか?

 まず当時の状況が重要で、現代とは違い、木製ラケットの時代、芝生のコートでは特にサーブ&ボレーの戦術が圧倒的に有利であった。ネットについてボレーすればそれを高い確率でパッシングで抜く事が出来る選手はボルグ以前はいなかった。つまり対戦相手が嫌がったのだ。ハードコートがまだ少なかった頃のヨーロッパ出身のボルグはその事は十分承知で分かっていたし実際、優勝を重ねるに従いネットに着く事が多くなっていった。

 必ずしも上手でないボルグのボレーは芝生のコートだから通用したと言われる事が多いがこれは少し違う。このサーフェスでは不十分な状態でもアプローチしてファーストボレーをする事も大切で、このためのタッチ系のボレーは当時の選手には必要不可欠だったが、ストロークの打ち合いで負けないボルグには不十分な状態からのアプローチとファーストボレーのためのタッチボレーは必要ないものだった。これはライバルコナーズも同様だったがコナーズのボレーはもっと上手で綺麗でもあった。いずれも十分なアプローチをとった後の決めのボレーがあれば良かったのだ。

 つぎに低くボールが滑る芝生の全英コートにおいて打点の低いボルグが守備面で非常に有利であった。打点の低さ、トップスピン、両手打ちバックハンド。この3つの理由からパッシングショットをクロスに安定して打つ事が可能になり対戦相手をネットに出にくくした。また、イメージほどグリップが厚くないためトップスピンを引き付けて後ろの打点で打つ事もできた。今でいうウィンドミルあるいはバギーホイップショットの元祖である。つまり芝生でもストロークの打ち合いでは王者であったと言える。ライバルコナーズもフラットを深く滑らせて芝生のコートでの打ち合いも得意であったが脚の速いボルグはベースラインよりかなり後ろに構えて互角に打ち合ったが、次の点で勝っていた。

 ボルグはサーブが当時の上位のプレーヤーの中では相対的に速い方であった。これが大きい。サービスキープがより楽にできることでコナーズにもだれにも優位に立つ事が出来た。ボルグより上の世代にはよりサービスが強力またはサーブ&ボレーが上手いプレーヤーが沢山いた。いや殆んどが、そういったタイプのプレーであったが、みな全盛期を越えていた。またコナーズ、ビラス、ボルグの3人がつぎの世代のサーブ&ボレータイプ完全に駆逐してしまっていた。

 相対的にサーブが良く、守りも堅いボルグが芝生のコートでも強かったのは当然であったと言える。同じ事が当時芝生のコートであった全豪でのビラスの2回の優勝の理由でもある。ボルグとコナーズが出場しない大会で別人の様にサーブ&ボレーを抜かれても抜かれても繰り返したのたった。

 次の世代のマッケンローや更に後のベッカー、エドバーグなどはサーブ&ボレーだけでなくストロークもしっかりしたプレーヤーで

このタイプを生んたのはボルグとコナーズの功績と言える。

 

ボルグの強さ③

勝負強さ

 

ボルグはグランドスラムの決勝で

11勝5敗と勝負強さは群を抜いている。

ちなみにマツケンロー7勝4敗

コナーズ8勝7敗

レンドル8勝11敗である。

 

ボルグが活躍したのは


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レーバーが全盛期をこえて暫くしてから


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コナーズと同時期にともに強力なストロークを武器に登場した。他の一流選手もことごとく全盛期を過ぎており事実上70年代はボルグのライバルはコナーズだけであった。言い方を変えれば同世代の選手を二人は圧倒していた。そしてボルグは徐々にサーブ力を増してコナーズにも負けなくなりウィンブルドンで5連覇を達成する。
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マツケンローとの決勝1980年の事だが、この後全米、翌年のウィンブルドン、全米と同じマツケンローに決勝で3連敗してしまう。

もし、マツケンローの登場がもう少し早ければ、あるいはレーバーの活躍がもう少し後の時期ならばボルグの活躍はなかったのか?

 それは違う。実際にコナーズの全盛期と重なっており、コナーズはボルグが去ってからグランドスラム3回も優勝するほど力は落ちてなかったのだから。またたらねばの話ならば、もし全米のサーフェイスが芝やクレイからハードコートへの変更がもう少し後であったならば、もしボルグが全豪に毎年出ていたならば等の方が現実に近い。いずれにせよボルグの偉業は変わらない。

 

ボルグの強さ④

相対的に少し上回る=勝利

この図式を理解し実践できた。

その環境である8年間に集中できた。

そして木製ラケットとともに去る。


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 若き日のボルグは自らの身体能力と安定感のあるダブルハンドとトップスピンの技術、一流選手たちのプレースタイル、年齢などを客観視した。コートサーフェイスに合った戦術で相手よりミスを少なくして1ポイントでも多くとる事だけに集中すればチャンピオンに成れる事を確信したはずだ。そしてそれを成し遂げた。

 ボルグや女子のエバートの二人の人気でテニスはビックビジネスとなりウェアやラケットはかつてないほど売れた。大量販売は多様化や開発費向上も促し80年代になりラケットの素材に変化が現れる。木製から高価ではあるが高性能でより大量生産が可能な炭素素材のものが登場する。木製からの解放は規制のなかったテニスラケットに面サイズのアップをもたらしこれが人気を得ると木製のレギュラーサイズのラケットはプロ選手の使用変更とともに短期間で生産終了となる。プリンスのグラファイトは発売当時10万円程したがよく売れた。ボルグは木製ラケットを使用したまま引退(後の短期復帰を除く)。マッケンローは83年途中から木製を卒業、キャリアの真ん中である全盛期に変更。コナーズは名器ウィルソンプロスタッフの開発に係わったが合わずに直ぐにアルミ製のT2000に戻した。

 

 このラケットの変化はテニス技術の進化、とりわけトップスピンストロークが簡単になりラリーのスピードが格段のあがる事を示唆していた。トップスピンは難しい技術でなくなるのをボルグは早い段階でわかったはずで、より強力なストロークを武器とする選手が多く現れる事を覚悟した事だろう。  

 実際に強力なフォアハンドのレンドルのような選手が現れる。
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レンドルはシングルバックハンドでもトップスピンを打ち続けられた最初の一流選手で、サーブもまた強力なものを持っていて、マツケンローに勝ち続けた。マツケンローも翌年に木製ラケットを卒業し対抗した。

 ボルグが82年以降シーズンを休んでいる間にテニス界は短期間に大きく変わった。ボルグは木製ラケットとともに引退する形となったが、潮時であったように思える。誰とも似ていないプレースタイルのコナーズとは違い、トップスピナー達はみなボルグのプレースタイルと木製のラケットの両方を進化させたスタイルであったから、ボルグは僅かな期間でクラシックとなってしまったが、おそらく冷静に相対的強さを意識していた本人はかなり早くにそれを予測していたのだろう。王者のままで美しくラケットを置くかたちとなった。

 

ボルグの功績

トップスピンを一般化した

両手打ちバックハンドを一般化した

サーブ&ボレー一辺倒を終わらせた

テニス周辺をビックビジネスにし

バンダナ、リストバンドなどファッションにも影響を与えた。

テニス史上最も偉大な存在だった。